学校教育に対する考察 本当の思考力とは?
2016/09/11
学校教育が教育たらざるゆえんは、カリキュラムが奴隷製造向けになっているところにあります。
上の言うことにしたがい、出る杭は打たれる。
問題には最初から答えが与えられており、決められた答えを出すことのみが良いとされる。
このような教育は到底教育とは呼べません。
しかしながら、現実には多くのひとが学校教育をベースとした考え方に染まっています。
上のひとの言うことが絶対だの、正解はひとつしかないだの、そのような考え方が本来の「思考力」を失わせることは自明でしょう。
現実の学校教育はもはや暗記としか呼べず、そんなことをしていては与えられたことだけこなす指示待ち人間になってしまいます。
教育するはずがかえって逆効果
言われたことだけだけやるとどうなるか。
情報の背景は読み取れないわ仕事の本質はわからないわで、リテラシーが悲惨なことになります。
実際のところ、学校教育は従順な奴隷を育てるように作られており、自分で考える人間を育てるようにはできていません。
学校教育は奴隷が育つように作られているのですから、それを疑わなければどんどん自立性がなくなっていきます。
教える側は自分の出世のために暗記重視で勉強させるわけですから、そのまんま従っていては「思考力」の芽が摘まれてしまう。そんなので考える力が養われるとでもいうのでしょうか。到底怪しいですね。
現状の教育は考えるためのツールを提供するだけです。
微分積分などのツールは与えてくれるが、それをどう使えばいいのかまでは教えてくれない。
自分から質問し、進んで学んだりしないかぎりは考える力など身につきません。
もし本当に考える力をつけたいのであれば、自分で読書したり社会勉強したりすべきです。
そうしてこそ学んだことが生きる。これを特に感じたのは、メディアリテラシーについてでしょうか。
中学か高校あたりでマスメディアだのメディアリテラシーだのをやるわけですが、学校の中では表面上のことしか触れられない。
実際に身の回りを見渡すと、そこにはグロテスクなものまでもが転がっています。
あなたの着ている服はどうやって作られましたか?
あなたが普段見ているインターネットなるものはテレビと何がちがいますか?
あなたはなぜ自己啓発本を読むのですか?
学校ではせいぜいマスコミがスポーツを商売にしている程度しか出てきません。
しかし現実にはこうしたエグいものまでが存在します。
メディアリテラシーの何たるかを理解するには、ちょっと踏み込んだところまで理解しなければならない。情報があったら、その裏で何が起こっているのかといったところまで考える必要があります。
そして、そのエグい部分を直視できた者のみが大きな利益を手にする。
それは出る杭を打つ教育とは相性が悪く、奴隷の枠のなかにとどまっていてはなしえないもの。
上の言うことに従わず、自分からレールの外に出なくてはならない。
真に考える力を身につけるというのは、それだけ学校教育に背を向けるということでもあります。
学校教育は道具を与えてくれるだけ
結局のところ、学校というのは考えるための道具を与えてくれるに過ぎません。
そこで実際に考える力を身に付ければ奴隷にはなりませんし、学校教育が全てだといって思考放棄すれば奴隷になってしまいます。
道具を得るのはたしかに大事なのですが、それを扱う側が使いこなせなければ何の意味もない。
学ぶ側が思考力という力を付けなければならないのです。
微分積分はテストでは重要だけれど、それは実生活のどんなところで使われているのか。
それが使われるのはなぜか。それによってどんな効果が得られるのか。
ここまで踏み込んではじめて勉強したといえるのです。
物の形状、反応の速度などその用途は多岐にわたるのですが、学校ではそんなことを教えてはくれません。
知りたきゃ自分で勉強しろ。道具は与えてやるから。これが教育の世界です。
本当に考える力が欲しければ自学する必要があるが、そのときにはすでに奴隷ではなくなっている。
学校教育が就職のために存在する一方で、それを突き詰めてしまうと本来の就職という目的からは遠ざかってしまう。
なんという皮肉でしょうか。奴隷育成のために存在するはずが、究極的には正反対の結果を生み出してしまうんです。
あわせて読みたい