下積み主義に惑わされる人々 成長を妨げる悪しき伝統
2016/09/11
大阪府大阪市の寿司屋「鮨 千陽」が1年未満でミシュランで選ばれた件について、ホリエモンのコメントが物議を醸している。ホリエモンの主張は下積み主義を否定したもので、筆者はこれに賛成である。実際に下積みに時間をかけたからといって味がよくなるというわけではないし、味付けについてはマニュアル化で済む話である。
そもそも、飲食店に下積みというのは必要だろうか?実際のところ、調理方法をマニュアル化してしまえばそこまでであり、良い味付けができればそれで良いのである。それなのに人々は昔の習慣を捨てられず、ラーメンなど寿司以外の分野でも下積み主義は色濃く残っている。例としてはラーメン二郎の出店までの修行期間があげられる。ラーメン二郎は修行を積んだ人が二郎の名前を使って商売する形式であり、チェーン店ではない。そこでは修行に数年かけた人が経営をしており、バイトを雇って店を回している。
短期集中への批判はナンセンス
修行というものは結果を出すために行うものである。下積みはあくまでもいい味という結果を実現するための手段に過ぎず、それ自体は目的ではない。それにもかかわらず下積み主義が消えないのは人々が昔からの慣習を捨てられない、下積みしてきた人の立場がなくなるといった理由からである。年功序列の空気がある日本では2つ目の理由というものは大きく、もし味やセンスといったものに目が当てられるようになれば、消費者の「盲信」によって成り立っている店はどうしようもなくなる。これは国民が結果に対して正面から向き合わない限り解決されない問題であり、新規参入の障壁の原因である。
つまるところ、下積み主義に囚われた老害の既得権益を守るために、経営者と消費者が下積み必須主義を作り出しているのである。下積みすべきという考え方がなくなってしまえば下積み世代は立場がなく、良い味付け手法を身につけた新規参入者に駆逐されてしまう。下積みは必要という考え方が広まることで新規参入者は減り、経営者には「すごそう」という印象ができるので、店側はウハウハである。
下積み主義は短期集中型の教育に対して批判的である。下積み主義者はかかった時間に対する盲信があり、教育は量×質だということを忘れがちである。調理や味付けのノウハウというものはマニュアル化することによってより短時間で教えることが可能である。ノウハウを身につけたあとは実践していけばよく、本人の心がけ次第で効率はいくらでも上昇する。短期集中型は時間をかけない代わりに密度が濃く、ブラックだ、スパルタだと言われるようなものである。
自動車学校は短期間でのスパルタ教育によって車の運転を可能にしている。自動車学校ではネチネチ言われるというのは当たり前で、路上運転という実践によって密度の濃いカリキュラムとなっている。自動車は命が関わるものである以上、本来は寿司の件よりも批判が飛んできてもおかしくはないのである。人々が短期集中型の運転教育を当たり前と捉えているため、教育時間への批判が少ないのである。
「最近の若いものは」思考
音楽の世界でも、奇抜な新規参入者は批判されるが、時間が経つとその奇抜さが当たり前になっている。今は世界的に有名なヘヴィメタルバンドのMETALLICAは、デビュー当時は若気の至り程度に見られ、攻撃的な歌詞はあまり評価されなかった。それでもアグレッシブな曲を出し続けることで、今では著名バンドのひとつとなっている。最初は痛いもの扱いされているものでも、継続によって当たり前というものが変化するのである。いつしかそれは痛いものどころか神として扱われるようになる。
古参が「最近の若いものは」とアバンギャルドな新規を批判しても、結局はその奇抜さが常識となり時代となるのである。いつの時代も新規参入者は風当たりが強いものであり、古参が新規をいじめるという構図は変わらない。反骨精神を持った新規が休まずに努力をすることによってその存在を認められるのである。
短期教育化もいずれ当たり前になる
今回の寿司職人の件に限らず、これから先短い期間で有名になる飲食店は増えていく。旧来の考え方では努力の量が重視され、質に関してはあまり評価されていなかった。しかしグローバル化によって結果主義が流れこむことで、努力評価主義は無くなる可能性が高い。冒頭でも述べたがノウハウというものはマニュアル化によって効率よく教えることができるため、職人を特別扱いするという見方は徐々に薄れていくだろう。グローバル化の流れには誰であれ逆らえないのである。
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